高校を卒業して工場に就職した

以下、当サイトが多数の方たちから集めた転職体験談となります。

人生2回の転職活動

高校を卒業して工場に就職したのですが、
医療事務に興味があり就職してからちょうど一年経った頃にハローワークに通い始めました。

 

最初の方は転職はすぐにできるだろうなんて思いながら仕事を探していましたが
就職難からか全く自分に合った仕事が見つからず、夢だった医療事務の求人も経験者優遇だったり
資格がある人のみの求人が多く、経験もなく資格もない私にとっては不利でした。

 

何社か薬局の事務や病院の事務を面接しましたが、
いい印象だけど経験者がほしいとか資格がある人がほしいとかで何社も面接で落とされました。

 

私的にすぐ決まるだろうと思っていたのが面接を落ちていくたびに自分に自信がなくなり、
面接をしてもどうせまた落ちるだろうなんて思いながら転職活動していました。

 

仕事が全く決まらず泣いた日もありました。

 

しかし工場の事務なのですが自分にあった求人があり、すぐ面接していただいた結果、合格することができました。

 

すぐにでも来てほしいということで仕事場に行くと社長に初日から電話対応をしてみなさいと言われましたが
私は今まで事務の経験がなくしたこともなかったので電話を取ってもなんと言っていいのか何をすればいいか全くわかりませんでした。

 

何日か働いて思ったことは自分には事務は合ってないと思いすぐに辞め、母親に勧められた製造業の仕事を探しました。

 

これが第2回目の転職活動です。
土日休みを希望していたので食品系の製造業ではなく機械などの製造業を探していました。

 

機械を作ったり車を作ったりする仕事ばかりなので男性募集が多く、力仕事のあるものばかりでした。

 

これもまただめかなと思いましたがなんとか2社面接をしていただくところが決まり、
自分の中でもものすごく仕事が決まらず焦っていたのでこの2社にかけることにしました。

 

すると一つの会社が面接した次の日に来てほしいとのことだったのですぐその会社に入ることにしました。

 

そして今現在もその仕事で毎日頑張っています。
楽しい会社に出会えてよかったです。


あの時の選択は正解だった

小中高とある程度の勉強を重ねて、親の方針により残念ながらすぐ就職することになってしまったのだが、個人的にもさっさと親の元を離れて自立したいという意思が強かった。そんな私は、高校3年の時に進路指導の教師にそこそこ条件の良い工場の求人を紹介してもらい、なんとか滑り込みセーフという形で就職を掴み取ることができたのだ。

 

就職活動が別に苦手だったわけでなくて、単にずっと妥協しないで求人を選んでいたことが遅くなってしまったことの原因だ。工業高校だったということもあり、就職氷河期でも大半の生徒が1社目にして就職先の企業に合格するのが普通だったのだが、これは他の高校では考えられないほど優秀とのこと。これは、たまたま就職活動をしていたときに会話した似たような高校生に聞いた。大勢の同級生が秋に内定をもらう中で、私は翌年の1月とだいぶ遅い時期にようやく就職が決まった。

 

そんな苦労をして掴み取ったそこそこの求人は、給料と福利厚生の両方が成績の割に良かった。自分よりも勉強ができる生徒はたくさんいたが、その人たちよりも良いところへ就職することができ、少し申し訳ない気持ちもあったが、せっかくの機会だから頑張ろうと、高校を卒業後、ついにその工場へと入社した。

 

この工場を経営している企業は、バブル期にとんでもない利益を生み出してきた中企業。支部の数が少ないものの、確実に利益を出してきた企業でもある。入社日は私以外にも同じ日に社会人を迎えた大学生の社員らとともに、社長との面会をこなした。唯一の高卒である私は、他の大卒者とはもちろん違うところへ配属となる。私は工場で下積みを。彼らは営業や事務の仕事に就くことになるであろう。

 

工場ではとても良くしてもらうことができた。上司の伝達ミスによって私のイメージが下がったこともあったが、すぐに誤解だったことが知られて事なきを得た。係長なんだから、事前に食堂の座席に関する説明くらいしておけよと思ったが、まぁ最初の1回は水に流そうと許した。これから自分の方が迷惑を掛ける機会が多いだろうしな。

 

私の就職した工場では、主に自動車に関する部品を製造しているのだが、社員はなんと3分の1が派遣社員で、おじさんやおばさんだけでなく、おじいちゃんとも呼べるような人たちがとても多かった。きっと、3分の2の社員たちが若い頃、バブル期に召集されて、莫大な利益を生み出してきたのだろう。

 

ものの見事に何回りにも年上の同僚ばかりだったが、一番歳の近い兄ちゃんが29歳。私は当時18歳だ。特に話題が合うわけでもなく、必要最低限の会話しか職場でしたことはなかった。毎朝出社するときに、ロッカールームの更衣室で年上の同僚たちは当たり前のようにギャンブルの話をしていた。競馬やパチンコの話ばかりで、生真面目な私は一切ついていけない。まぁ大した興味もなかったのだが、それだけで会話ができなくなるのは少し残念だったかな。

 

工場でまず最初に与えられた仕事は、たしか自動車のドアの部品を機械で溶接する仕事だった。これは特に難しいものではなくて、何の資格も必要としない。そう・・・派遣社員が担当するような超単純な作業だ。これを1日で3000回程度繰り返す。調子の良い日は、この溶接作業を4000回8時間でこなすこともあった。しかし、どれだけ数をこなしても、誰にも褒められることがなければ、何のやりがいも感じられなかった。

 

例え、どれだけ効率良く作業ができるように努力しても、工場ではあまり評価はされない。工場1階の溶接作業はとても退屈で、8時間をこなすことがストレスにしかならなかった。唯一の救いは、定期的に話かけてきてくれた派遣社員の人たちだろうか。おばあちゃんのような派遣社員は、若い私によく飴をくれた。きっと頑張っていたことを知っていたのだろう。

 

どれくらい期間が経っただろうか。しばらくすると、次に私に新しい仕事が与えられた。きっと正社員でなければ、ずっとこのまま小さな鉄板を重ねて溶接するだけの日々が続いていたに違いない。

 

課長に連れられて工場の2回に行くと、そこには1階と違った景色があった。とても静かで落ち着いた空間で、おじいちゃんとおばあちゃん、そして少しだけ若そうな派遣社員の女性が5人くらいでミニラインのような仕事をしていた。

 

もちろん初っ端からそこに入ることはなかったが、まずは誰も使っていないような機械を一人で担当することになった。とても小さな部品を組み合わせて、古臭い機械でくっつけるという、今思い返すとよく分からない作業。それを何日かこなしていると、おじいちゃんおばあちゃんたちにやたら褒められた。「若いから早い!」「真面目にやってくれている」と繰り返された。私はただただ「いえ」とか「ありがとうございます」などと適当に愛想よく返事をしていた。

 

すると次に与えられた仕事が、ラインの作業だった。彼らにまざって自分の担当作業を延々とこなすのだが、どうも私のスピードがとても速かったせいで、またさらに褒められてしまった。私の作業を早すぎて逆にラインが詰まってしまうのだ。これは嬉しかったことではあるが、さすがにプレッシャーがかかってもダメだろうと、ある時から隣の作業員のペースに合わせて部品を組み合わせることにした。

 

さて、ここまで工場での日々を綴ってきたが、その生活の中dえ、ふと頭をある言葉がよぎったことがある。
「このまま誰にでもできる単純作業をアホみたいに繰り返す生活を送っていていいのか?」
およそ半年が経った頃からそう思うようになった。職場には嫌いな人間は特にいない。人間関係は特に悪くもない。まぁ仲の良い同僚は一切いなかったが。たまに会話を愛想よくするのが良いイメージを与えていたらしく、あまり私を嫌う人もいなかった。

 

最終的に高卒で就職したこの工場では、多くの単純作業を種類ごとに分けて教えてもらうことができた。板金の溶接だけではない。細かい部品の組み立て作業や、ライン、大量の組立部品の検品など、正社員として工場の全ての作業に精通するように育てるつもりだったのかもしれない。それはそのはず、やはり若い社員が私しかいなかったから、いまの主力である年寄りの社員や派遣たちが定年を迎えることを視野に入れていたのだろう。

 

工場を辞める時は、なかなかどうして言い出しにくかった。すでに決意を固めたはずだったが、せっかく進路相談の教員に教えてもらった良い企業案件だったのに、それを台無しにしてしまうのが申し訳なかった。だが、背に腹は代えられない。私は堂々と課長に対して退職の相談をすることに。なぜ直属の上司である係長ではないのか、ということについては、単純な話だ。係長はいつも忙しくて定時の後にどっかに行ってしまうため、話をし辛かったのだ。そのせいで、係長からはなんだかなぁといった態度を取られてしまうことはあった。

 

課長に話をするとすぐにこう言われた。「それは君1人の問題ではない。家族とよく相談して話し合って決めるべきだ」と。
当時の私は18歳だったが、この言葉の意味が理解できなかった。なぜなら、働きに出てる時点ですでに大人だからだ。もうお年玉を貰える年齢でもない。なのに、なぜか自分一人で決めてはいけないと言われたことが少し気に入らなかった。

 

課長の言う通り、私は家族に会社を辞めることを宣言し、相談は特にせず、翌日に課長に対して辞める意志を伝えた。

 

課長はやはり引き止めに来たが、私は断固として意志を曲げず、なんだったら「退職は社員がそれを伝えた日から1か月以内に辞めることができる」ということが労働基準法によって定められていると発言するくらい、強気だった。

 

そして工場を退職する話はトントン拍子に進んでいくことに。私の勤めていた企業は超ホワイト企業だったため、残業が一切なかった。有休も必ず与えられており、新入社員の私でも毎月好きな日に取ることができた。さすがにゴールデンウィークの時に連休を取って9連休にすることはできなかったが・・・

 

それはさておき、有休を全て消化した上で、私は工場を退職できるように取り計らってもらうことができた。これでやっと、馬鹿みたいに単純作業を繰り返す日々から解放されるのだ。もう金属製の部品や溶接時の火花とはおさらばだ!

 

それともう1つ。課長には、くれぐれも静かに退職したいので、誰にも言わないでくれと伝えた。その時は承諾してもらったものの、おそらくだが、実際には係長だけでなく、他の社員たちも知っていたのだろう。なんだか、退職日が近づいてくるにつれて、周りの雰囲気が少し違っていたからだ。最後に出社した日には、係長にこう言われた。

 

「ここ辞めるんだって?」「なんか気に入らないことでもあった?」

 

私はこう答える。

 

「いえ。特に何も。」

 

無愛想に聞こえるかもしれないが、実はこれ、とてもにこやかに、笑顔で答えているので勘違いしないように。

 

最後に、課長の元へ行き、あらかじめ購入しておいた6000円ほどのお土産が入った袋を渡すと、軽く感謝の挨拶をしてから、すぐにその場を去った。

 

 

あれからもう何年が経っただろうか。誰にでもできる単純作業を工場でこなすという生き方を辞めてから、何か考え方が変わったような気がする。漠然としているが、、木を切るだけのキコリが、「森林を伐採することで地球にどのような影響が出るのか?」を考え始めるかのような変化が起きた。

 

工場を辞めてすぐは、これまでストレスだった仕事から解放された反動で、1か月ほどは何もせずに、ただダラダラと日々を過ごしていた。ちょうど、親からそれぐらいの時期に「次の仕事をどうするのか決めないと」と言われていたが、私はあまり気にしていなかった。しかし、もう1か月経ったあたりから、そろそろお金を稼ぎたいなと考えるように。そして始めたのがなんと株式投資だ。(笑)

 

本当はコンビニでバイトでも始めるつもりだったが、ネットを使って家でお金を稼ぎたいと思った私は、工場時代から貯蓄してきた貯金の30万円を使って、いざ株へと挑んだ! しかも結構長いことやった。半年くらいだろうか。

 

毎日チャートを見ては一喜一憂する毎日。しかも、なぜか異常なまでに安定志向だったせいか、ほとんど稼ぐことはでなかった。かと言えば、大きく損をすることもなかった。果たしてこの経験は何の意味があるのだろうか?と疑問に思うこともしばしば・・・

 

株式投資を6か月に渡り経験し、培ったお金はなんとマイナス3万円(笑)

 

稼ぐどころか、損をしてしまった。なんとも中途半端な結果に終わったが、しかし、私の人生は、またそこから大きく変化することに。一時期はアルバイトも視野に入れて面接へ出向いていたのだが、髪が長くなっており、お気に入りの髪型を短くしないと採用はできないと言われたこともある。もちろん無職だった私は髪型を変えるのが嫌でその採用を蹴った(笑)

 

さて、今は一体何をしているのかと言うと、なんと自営業として独立して生きている。ここまであまりにも文章が長くなってしまったので詳細はもう書かないが、年齢の割にはなかなかの収益を稼ぎ出すことも実現できたし、毎日、朝6時に起きて7時に工場へ出社していた時代と比べて、遥かに豊かになった。

 

たしかに不安定な職ではある。しかし、やりがいはあるし、自分のやったことが確実に成果や実績となって如実に表れる仕事でもあるのだ。どれだけ時間を費やしてもうまくいかない時は極端に収入が低い。そして苦しい。ストレスもある。だが、一転して、上手くいっている時は素晴らしい生産性を感じさせてくれる。これが天職とは思わないが、これまでの退屈な人生を大きく変えてくれたという意味で、この仕事にはとても感謝している。

 

 

あの時、単純作業の工場を辞めたことは、きっと正しかった選択だろう。例えこの先路頭に迷うことがあっても、私は後悔などしない。わずか8か月間という期間で素早い判断を下せたことに間違いはないと思っている。

 

実は、会社を辞める時にボーナスの受給資格期間を勘違いしていたせいで30万円ほどのボーナスを受け取ることができなかったのだが、それでも私は正解だったと自負している。

 

今の時代、高校を卒業してすぐに就職するなんて、正直ナンセンスだろうと普通は考えるが、ネット上ではそれが当たり前でも、いまだに日本の現実として、高卒で工場勤めになる人たちが大量に存在する。そしてその多くの人たちが、工場で大手メーカーなどの下請けとして、毎日コツコツ地道に鉄の部品を前に単純作業を繰り返しているのだ。私の地元の友達に同じ高校を出て似たような仕事に就いた奴もいるが、今ではもうそれらの作業に順応してしまったらしい。

 

私は適合できなかったが、そのおかげで素晴らしい職に就くことができた。

 

結局のところ、人生は自分の選択次第で簡単に変わってしまう。良くも悪くも。もし課長や係長に説得されていたら?親に説得されていたら?果たしてどうなっていたのだろうか。今の職で飯が食えているのは、あくまでも自分で勇気を持って選択したから、だからこそ今がある。

 

工場で働くことは簡単かもしれない。工場で部品をくっつけ続けるのは単純で、誰にでもできるだろう。しかし、自分の人生はそんなもので満足なのだろうか?もしも、この文章を読んでいるライン工の人がいたら、自分の中であらためて考え直してほしい。

 

「不景気な世の中だから仕方がない。高卒だから工場で働き続ける道を選ぶよ。」
「私も工場を辞めてもっと有意義な人生をおくりたい。だから行動に移してみるよ。」

 

どちらの人生も私は否定しない。あくまでも人生は、自分で考えて、自分の意思で行動して、後悔のないように思い切って歩むべきものだと思います。